さて、東洋医学では「気」についての話がよく出るが、その「気」とはそもそも一体何という質問がよく出る。もっともである。普段何気なく「気」と言っているが、正面切って「では気とは何ですか」と聞かれると、答えられない鍼灸師や按摩師が多いのではないだろうか。これについてはかなり主観的なものになるが、明らかに万物すべてのもの、人体も含めて気が存在しないものはない。路端の石ころにも気は存在するし、大気にも存在する。一握りの土にも存在するし、抱えきれない大山にも存在する。一つの飯粒にも存在するし、ひと抱えのパンにも存在する。それらに宿る気は、それらそのものにも循環しているし、すべてのものと交流している。「気」は、エネルギーなのだ。物質はエネルギーと変化する。エネルギーは物質に変化する。すべてのものそれぞれが気の集合体とも言えるし、すべてのものが気を含有するとも言える。エネルギーは循環する。ある中国の気功師が昔言っていた。気は物質だと。唯物論の中国人らしい言い方だが、言い換えると、気を物質として感じ取っている。私が人体に触れると、あるいは触れずとも見ると、気に満ちた人、気が偏在している人、気そのものが不足している人、様々な人に出会う。確かに物質のように感じることもあるが、必ずしもそうではないと思う。気はすべてのものに交流するエネルギーなのである。
そのエネルギーたる気の中で、人体の生存に欠かすことのできないものが、清気すなわち空気と水穀の気すなわち飲食物からの気である。
清気が不足しても水穀の気が不足しても、人間の活動に影響を与えるし最悪の場合生命に危機が訪れる。身体の機能と器質を維持するための最低限のエネルギー、「気」が、清気と水穀の気なのである。
清気は天の気であるから陰陽に分類すると、陽となる。水穀の気は地の気であるので、陰陽に分類すると陰となる。人は、陽気と陰気を受けて生命活動を維持しているのである。
げんき本舗治療院
羽山弘一