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東洋医学

昨晩のツイッターのやりとり

昨晩、ネコパグ先生とツイッターでやりとり(といってもネコパグ先生の問題提議に対して僕が一方的にのたくってただけですが)した内容です。

少し統一性に欠けますが、紹介いたします。

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そもそもが、気を陰気と陽気に分ける必要があるんでしょうか。このように分けるのは、いわゆる経絡治療のみのように思います。たとえば、黄帝内経では、気を陰陽に分けていません。さて、そのことについてはどのようにお考えでしょう。

さて、陰気と陽気に分けるのをなくすと、全部煮詰まってくるでしょう。その際は、単純に気は陽であると解釈した方がわかりやすいように思います。

ただ、気単独で考えると、陰に近い性質の気と陽に近い性質の気が存在し、それぞれ陰気、陽気に分類してもおかしくはないと思います。

さてそこで、我々は何を根拠として、陰陽や気血を物語っていくかですね。

物語るというのは、東洋医学の考え方には、古代中国思想に基づく考え方を取るという基本が存在しますので、「どの」思想に基づくのかで、物語が変わるというわけです。

黄帝内経には黄帝内経の思想があり、難経には難経の思想があり、また湯液にはそれぞれ典拠となる文献の思想があります。これらの思想には差違があり、その差違をどのように整理するのか、これが我が国の「東洋医学」に不足していたことなのではないかと考えています。

セミナーでも少しお話ししたかも知れませんが、命門の思想も難経に始まり、金元の時代までいろいろ議論があったと聞いています(個々の文献は読んでないので)。もちろん、現代中国では、その思想を捨てていますね。

現代中国医学では、鍼灸も湯液も一つの考え方として統合しようとしました(その前は現代医学も統合しようとして失敗しましたが)。すると、どうしても矛盾が出てきます。統合した医学理論で、経穴をどのように扱うかが不明だからです。

その矛盾を解消する手段として、いわゆる穴性学が出てきたのではないかと僕は考えています。

しかしそれでも、穴性と現代中国医学理論をどのように統合して考えるかが解決していません。

その意味では、経絡治療が、五行穴に思想を組み入れたのは統合性として合理的な考え方だと思います。

しかし、井穴から合穴に至る五行穴に木から水を当てはめると、なぜ、五行に基づく臨床ができるのか、明確な回答がありません。たとえば、なぜ陰陵泉であって原穴である太白ではいけないのかなど。

つまり、なぜ井穴から合穴に五行を当てはめ、それを補寫に応用しなければならないのか。それ以外の経穴で補寫はできないのかどうかという治験が不十分なように思います。

経絡治療は、究極からいうと難経69および75の応用ですね。一つの考え方ではあるけれど、絶対ではない。その点で、経絡治療に蔵府や経絡の生理を考えて行った池田先生の功績は大きいと思います。

そこで我々に必要なのは、古典をどのように生かしていくか、古代中国医学理論に基づく「現代の」東洋医学をどのように構築するべきかだと思うのです。

元々の論点に従うと、腎の気は陰だけしかないのかどうかですね。あるいは、気は陰なのかどうかですね。血に対比すると気は陽ですが、その気の中でも陰の性質のもの、陽の性質のものがあるように思います。

腎気は、対比すると確かに陰の性質です。しかしそれは津液の性質に引きずられてそのように感じるだけなのかも知れません。本当は陽気も腎にはあるのだけれど、津液が強いために気がつかないと言い換えればいいでしょうか。

そこで、気と精の違いですね。それを考えなくてはなりません。そもそも、精とは何か。腎精とは何か。

気が、生殖とか生長など生命力の源となるものと考えれば精なのか、あるいは、精が精微なるものとして、精が統合したものが気なのか。どちらの考えなのかによっても、考え方が違ってくるように思います。

僕も「東洋医学」をセミナーで講義していますが、その内容が僕の東洋医学なのであり、他の人の東洋医学ではないわけですね。

未だ我が国の東洋医学は、一つのものとしてまとまっていない気がします。経絡治療の考え方も最終ではない。

脾も果たして陰気しか持たないのか、何か、あまりにも五行にこだわりすぎて考えているような気がします。

脾に関しては、陰中の陰という考えですかね。

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